多様性自体に大した価値はなくて、価値があるのは多様性からもたらされる自由やサービスであるのと同じように、色々な経験をすること自体に大した価値はなくて、価値があるのは経験から得られる何かなのだと思う。(こういうことをいきなりツイートし出すのはなんか気恥ずかしいのでここでこそこそ言う)
2026/06/20
雨。外出せずTwitchを垂れ流したり統計学をだらだら勉強したり。
Twitterで某教授が亡くなったと知った。俺はこの方が過去にたびたび物議を醸す発言をしていたらしいことくらいは知っているが、授業を受けたことはないし具体的に何を言っていたのかも知らないので、亡くなったと聞いても特に強く思うところはない。それより今回ちょっと気になった*1のは訃報に続いて目にした「〜の授業受けてみたかったのに」とか「〜先生には本当にお世話になった」のようなツイートである。なんかこういうツイートって、その人が亡くなったことによって失われるのは、その人そのものよりもむしろその人がもたらしてくれるものであると言っているようにも感じる(ツイ主が実際のところそういう意図でツイートしているかは知らない。そういう勝手な憶測もできるというだけ)。さらにいうと、もしかするとその何かは、その人じゃなくてももたらせるものだったかもしれない。もちろん実際にはその人はとてもすごい人で、その何かをもたらせる人がこの世にその人しかいなかった、という可能性はありえる。でもそうじゃないものだってそれなりにあるはずだ。で、亡くなった方への反応ってこれ以外できないんだろうか。その人がもたらしてくれるものの喪失ではなく、かけがえのないその人の死そのものを悼むことって可能なんだろうか。というパスカル的(?)で剥奪説的(?)で新しみのないことをふと考えたという話。
*1:本当のことを言うと、今回だけでなく、誰かの訃報への反応をネットで見る度に、ここに書いたようなことが気になっている。
2026/06/19
気持ち良くなって目的なくチャリを漕いでいたら隣の県まで行ってしまった。これが華金ですか。

久しぶりにブログに書き込む気になったので働き出した感想でも書いておこう。労働、家や車を買ったり子供を持ったりしたい人向けに設計されすぎ。金のかかる野望をほとんど何も持っていない俺にとって週5日8時間労働はどう考えても過剰。みんながみんなそんな同じ人生構想を持ってると思わないでください。
2026/01/27
必要があって読み出しただけで全然期待していなかったけど、思っていたよりはだいぶ面白かった。プラトンにおける「自己知」「魂」「アクラシアー」「イデア」などの理解を、その後の西洋哲学や現代人における理解とどう違うか対比しながら解説してくれるところが勉強になる。現代英語圏の哲学を意識したような記述も多い。この辺は主著『魂の変容』とも関わってくる点なんだろう。ただ最終章の20世紀における『国家』受容を語る部分はつまらない。
いまプラトンを読んでも、あまり実感が湧かないのは、このキャラクターの実名表示の効果であろう。対話の設定された年代は、多くの場合同時代より若干遡るとは言え、その名前のもつ生々しさは消えていない。二〇二一年の時点で森喜朗や小泉純一郎、西部邁、麻原彰晃といった面々が実名で登場してやりとりすることを想像してほしい。対話篇に登場する名前は、読者に対してさまざまな想念と感情を喚起させるものだったのだ。(p. 33)
2026/01/11
道徳は「実践性」と「客観性」という、一見ジレンマに陥るように思われる2つの性質を併せ持つ。本書はこのジレンマを解消するにあたって、「べき」(規範的理由)を「なすべき」(当為的理由)と「あるべき」(評価的理由)に区別し、「なすべき」に実践性を、「あるべき」に客観性を担わせる。
著者が追い求めている「道徳の客観性」は実在論者が考えるような世界の側にある客観性ではなく、あくまで道徳的評価を共有する共同体に依って立つ客観性なんだ、ってことに気づいたのが結構読み進めてからだった。このことが一番明示的に書かれてるのは結論だけど、ちゃんと読んでいる人は3章くらいで気づいてるのかも。気づくまではどこかで大胆な実在論的主張をし始める本なんだろうなと予想していたが、そこまで強い客観性を求めているわけではないと気づいてからは著者の主張が穏当で受け入れやすいものだと思えるようになった。
ただ自認プラグマティストとしては「事実の描写vs.態度の表出」みたいな区別には乗れない。「『親はその子を病院に連れて行く』と『その子は親によって病院に連れて行かれる』は主語を変えて能動態を受動態にしただけで、意味としてはまったく同じ」(p. 187)みたいな真理条件意味論に則った記述にも当然乗れない。とはいえこれは論証の本筋には関係しない。
2026/01/08
修士課程の時間は道徳的信念に対するEDAを研究していたわけだが、これは道徳的実在論(特に非自然主義的実在論)という個人的には明らかに間違っているように思えるものに付き合う議論だという点ではちょっと不毛だった。まあ、21世紀がなぜかParfit, Shafer-Landau, Cuneo, Enochといった大物の非自然主義的実在論者が何人も存在する(した)奇妙な時代であるのは確かであり、彼らに対する批判を提示しているEDAに意義がないとは思わないけど。あと、不毛とは思いつつも研究しててつまらなかったわけではない。
今自分が根本的に興味があることを挙げるなら次のような感じだろうか。まあ研究はしないけど。
- 忍び込むミニマリズム(creeping minimalism)
- プラグマティズム(全面的表出主義や推論主義などの反表象主義的意味論全般、存在論的な静寂主義)
- 言語進化の知見と言語哲学の関係
- AIと意味論
- 予測処理、予測符号化、ベイズ脳
- ベイズ推論
逆にどうにも違和感を感じているものを挙げると以下のような感じ。
あと同期がバーナード・ウィリアムズを研究していたのでウィリアムズの話は色々聞いたが、言ってることはだいたい正しい気がするな。最近見た以下のツリーもちょっとウィリアムズっぽさを感じて肯いた。
今美徳と徳倫理学について考えてるのは、カント主義的(カントとは違う)な発想っていうのはピーターソン的に言えば公平性とかそういうのを特段に重視する立場で、功利主義っていうのは公平性と善意みたいなのを重視する立場よね、みたいな感じ。
— 江口某(えぐ某) (@yonosuke2025) 2026年1月2日

