2024/05/14

McKay, N. (2023). "Can Rational Reflection Save Moral Knowledge from Debunking?"

 

1. EDAについてのイントロと但し書き

 

2. フィッツパトリックはEDAに対して「私たちは理性的反省によって進化の影響と独立に道徳的真理を把握できる」と反論している。しかし本稿の主張では、理性的な道徳的反省は、反省以前の道徳的性質の把握(「道徳的直観」「素材material」「インプット」とも呼ばれている)に基づいており、かつそれは進化によって備わったものであるため、実際には進化の影響から自律していない。

反省以前の直観、素材 ー 理性的反省 → 私たちの道徳的諸信念

↑ここに結局進化の影響がある

 

3. [反論1] 道徳的反省の基礎には、進化の影響から自律したものもあるのではないか?

反省以前の素材 ー 理性的反省 → 私たちの道徳的諸信念

↑この素材には進化から自律したものがある

  • うーん。
  • 適応的でない基礎があったとしても、それは遺伝的浮動や外適応で獲得された可能性もあり、だとしたらこれらの信念は結局ランダムなものになってしまう(Kahane 2011: 111-112)。
  • 「道徳的直観は自然選択ではなく、遺伝ではなく、社会的学習によって獲得されたものだ」(Arvin 2020, 2021)という説明は、道徳的直観が自然選択と独立に形成された可能性を示唆する。しかし、次の2つの理由からこの説が有望だとは思わない。
  • 第一に、選択には自然選択だけでなく文化選択もある。社会的に受け継がれる形質にも文化選択が働いてきた可能性がある〔これほんと?ミームみたいな話?〕。
  • 仮に文化選択が働いた可能性を否定するとしても、第二の問題として、文化的に受け継がれてきた規範が真理の認識をもたらすのだとしたら、私たちの祖先はどの規範を受け継ぐべきかを決定する際に道徳的事実を正しく理解していたことになる。文化選択に頼れない出発点まで遡ったら、結局そこでは祖先たちは自然選択に適う規範を選択しただけである確率が高い。
4. [反論2] 理性的反省の基礎なんて要らないよ。最も基礎的な道徳的信念Cuneo & Shafer-Landau (2014)が言うところの「定点」)は概念的真理なんだから、概念について習熟してあとは論理的直観にさえ訴えれば、何が道徳的真理かはわかる

反省以前の直観、素材 ー 理性的反省 → 私たちの道徳的諸信念

    基礎など不要

  • うーん。
  • 第一に、概念の使い方がわかったところで、その概念を満たすものが実在するかどうかはオープンクエスチョンだよね。もし規範的概念が経験的概念に分析的に還元できるなら他の懐疑論ともどもEDAは瓦解するけど、Cuneo & Shafer-Landauはそんなこと言ってないし、ムーアのOQAとかを踏まえてもそんな還元ができることはまったく明らかでない。
  • 第二に、経験的に言って、道徳的知識が概念的真理であることは疑わしい。その何よりの証拠は、錯誤説論者が道徳的信念の正しさを疑っていることだ。確かに、概念的真理の中には素人には自明ではないものもあるかもしれないが、プロの錯誤説論者が概念的な道徳的真理を把握し損ねてるなんてありそうにない。
5. [本稿の主張への懸念] 本稿の主張を認めたとすると、道徳のみならず科学・数学・哲学の信念も崩壊するんじゃないか?
  • 否。∵道徳的信念はその真理値が適応度に関係ないのに対し、基礎的な数学的・論理的信念の場合はその真理値が適応度に関わってくる(真であるからこそ適応的である)から。
  • これに対しては、「高度に抽象的な理論的知識は、基礎的な知識から理性的反省のなかで徐々に発展して獲得されたものであって、進化環境の祖先はそれらを知らなかったんだから、真理値が適応度に関わっていないじゃないか」という反論があるだろうが、私は理性的反省というプロセスに問題があるとは言っていない。道徳的直観という理性的反省の「素材」の真理性が疑わしいと言っているのだ。
6. 結局、理性的反省に訴えてもEDAを中性化することはできない。実在論者は以下のどちらかを反駁することを目指すべきだ。

⑴ もし私たちの道徳的直観の内容が自然選択や文化選択によって大きく形成されたのであれば、それは真理を追跡していない確率が高い

⑵ もし道徳的直観の内容が自然選択や文化選択によって大きく形成されたものでないならば、それらは真理を追跡していない確率が高い