2024/06/21

Kahane, G. (2014), "Evolution and Partiality."

 

進化学的暴露論証(EDA)に関して、デ・ラザリ=ラデクとシンガーが「partialな道徳は進化学的に暴露されるが、シジウィックが言うような普遍的善行(universal benevolence)の原則*1は進化の過程で選択されたとは思えないので暴露を免れる」みたいなことを言って功利主義を(部分的に)擁護しているのは斯界では有名な話である。これはたぶんいろんな論文でされている話だが、本にまとまっているものとしてはThe Point of View of the Universeの7章あたりがあるか。邦訳が存在するVSIでも同様の話に触れているはずである。

Kahane (2014)は、この主張に対するカヘインからの反論である。カヘインの主張は以下のような感じ:

もしEDAに訴えるなら、partialな道徳だけでなく、「苦痛は悪である」のような功利主義を支える福利についての中核的信念まで暴露されて共倒れしてしまう。他方でEDAを支持しないなら、「苦痛は悪である」のような福利についての信念の暴露は防ぐことができる代わりに、partialな道徳を暴露することはできなくなる、というジレンマがある。功利主義者は功利主義を擁護したいのならEDAに訴える以外の道を何か探るべき。

EDAを適用しても普遍的善行の原則そのものは暴露されないけど、功利主義の他の部分が破壊されるからやっぱり功利主義EDAによって擁護できないという感じのようだ。カヘインでも暴露できない普遍的善行の原則って何なんだマジで。この原則がどうやって正当化されるのかということが前からずっと気になっている。シジウィックなら「理性的直観によってだ」と言うのかもしれないが、進化の影響を逃れた理性的直観なるものが本当にあるんだろうか?

 

*1:ベンサムが言っている「各人を一人として数え、決して一人以上としては数えない」とか、普遍化可能性とか、行為者中立性とか、この辺全部同じようなことを指しているように聞こえるけどどう違うんでしょう。

イハナシの魔女

www.kemco.jp

ノベルゲー。面白かった。沖縄の離島(モデルは渡名喜島)を舞台とする伝奇ボーイミーツガール。イハナシは沖縄方言で伝説、言い伝えの意味らしい。

琉球神道が結構ストーリーの中核に関わっていて(どこまでが事実でどこからがフィクションか正確にはわからないけど)興味深い。ネットで感想を漁っていたところ「ファンタジー要素がちょっとくどい」みたいな感想が2件くらいあったがわかってない。ファンタジー要素が掘り下げられてこそワクワクをかき立てられるんだろうが!

あと登場人物みんな出自とか境遇が不幸だ。家族に見捨てられたり、神職の家系に生まれて夢を断念させられかけたり、その他これ以上書くとネタバレになるけど結構ひどい目に遭っている。どの家に生まれるとかって選べないしな。私が他でもないこの時代この土地この家に生まれたことには究極的には何の理由もない。誰と付き合うかはまだコントロールできるかもしれないが、それでも出会いにはやはり偶然としか言えない部分があると思う。ストーリーで何度か「運命」という言葉が使われていた気がするが、まさに「運命」としか言えない、不条理で個人にはコントロールしきれないことがどうしてもある。普段そんなことをぼんやり考えることがあるのでこの作品を読んでいるときも似たようなことを思った。とは言え最後はみんないい方向に進んでいるので救いがある。

おまけ本の「Append」も読んだ。分量的に500円が適正だと思うがまあ内容には満足。

2024/06/15

某バンドが差別的表現で炎上している。

俺は中等教育における「古典」科目の比重をもう少し下げるべきではないかと常々思っているんだが、こういう炎上を見ると、古典の時間の一部を削り、代わりに差別や植民地主義の歴史を教えたり、民族・移民・LGBTQ+・障害・階層などについての理解を深めたりする「人権」という科目でも作ればいいんじゃないか、と思う。そうしたらこういう無知ゆえの過ちを犯す人の数は減るのではないか。

(ちなみに沽券を守るために言っておくと古典が苦手/嫌いだから古典教育縮小派になったわけではない。受験生のころは漢文が一番好きな科目だったしセンターの古典は100/100だった。昔の文書を読んだりその重要性を理解して継承していったりするためにはいつの時代にも古典を読める人材が一定数必要であることも、現代日本語に古文・漢文が大きな影響を与えていることも、わかっているつもりではある*1。一応。しかし、私たちが現代社会を生きる上で身につけるべきと思われる知識が他にも様々にあるなかで、現在の古典教育の比重は果たして適正なのだろうか、というのが気になる。)

なお、上に挙げた「人権」のような科目を実際に作ろうとしたらすばらしい右翼の方々から激しい批判が湧き上がると予想される。

 

*1:Twitterで古典教育の必要性が話題になると、「古典の教養がないと〇〇の意味・面白さを理解できなくなるから〜」みたいなことを言うやつが出てきてしかもそれに結構いいねがつくのを目にすることがあるが、知らなくても大きな実害のないことは現代ではネットで調べればいいし、単に何かを楽しむための教養として古典教育が必要だという筋の議論も古典縮小・廃止派には響かないだろう。この手の話はむしろ「やっぱりその程度のことにしか役に立たないよな」という印象を相手に抱かせるだけだと思う。

数字n (n∈N, 1≦n≦10) にまつわる英語

読んでいた某エントリに'triadism'という語が出てきたのをきっかけに気になったのでいくつか調べてみる。

  • monism 一元論 / dualism 二元論 / triadism 三元論 / quadialism 四元論
  • dichotomy 二分法 / trichotomy 三分法
  • unity 単一性、統一 / duality 二元性 / trinity 三元性、三位一体 / quaternity / quinternity / sexternity / septernity / octernity / novernity
  • solo / duo / trio / quartet /quintet
  • triangle 三角形 / quadlirateral, quadrangle [square, rectangluar] 四角形 [正方形、長方形] / pentagon / hexagon / heptagon / octagon / nonagon / decagon
  • duology 二部作 / trilogy 三部作
  • triumvirate 三頭政治
  • twosome 2人でやる、2人プレーの / threesome 3人でやる、3人プレーの

2024/05/28

YouTubeで流れてきた関東の超満員電車の動画をつい開いてしまい眺めていた。通勤通学客が駅ホームの係員にぎゅうぎゅう押し込まれているのを見ていてふと、「車両全部2階建てにしちゃえばみんな収容できるんじゃね?」という安易な思いつきに至った。

調べてみると、確かに2階建てにすれば定員は増えるし、実際JRは1992年、通勤用に全車両2階建ての電車(215系)を作ったらしいが、構造上ドアが1両に片側2つしかないがゆえに乗降に時間がかかるのが難点で、あまり普及しなかったとか。

trafficnews.jp

toyokeizai.net

うーん、確かに俺が知ってる中で2階建車両が走ってる路線というと湘南新宿ラインと京阪くらいだけど、どっちも2階建ての車両はドア2つしかないな…。何か技術的な問題があるんだろうか。

でも2階建てはうまくいけば収容力を革新的に向上させられるだろうから、やっぱり簡単に諦めるべきじゃない気がする。じゃあホームも2階建てにしてドアを2階と1階で別にするというのはどうだろうか?そうすればドアの数が2倍になって乗降スピードも2倍になる!

…という思いつきが頭をよぎったが、落ち着いて考えれば流石にホーム改修のコストとかが大きすぎて現実味が薄そうに思える。が、調べてみると実際に過去同じようなことを言った有識者がいるようだ。以前小池百合子都知事選に出た際、満員電車解消のために2階建て車両を導入することを唱えたらしいのだが、そのアイデアの裏にいたのは、元JR東日本で交通コンサルタントの阿部等氏という人だったとのこと。この人が俺と似たようなことを言っている。阿部氏のアイデアは以下の通り。

merkmal-biz.jp

 阿部氏は「満員電車ゼロ」を実現するために、さまざまな方策を提示している。そのひとつが2階建て車両導入の構想だった。まず弁護すると、阿部氏は、2階建て車両導入が

「即ゼロ」

となるような、ずさんな計画を提示しているわけではない。この時期、積極的にメディアで発言していた阿部氏は、混雑解消のためにさまざまな方法を提案している。

 例えば「全路線・全列車・全区間の混雑率」を毎日公表するというのも、そのひとつだ。満員電車の現実の「見える化」を実施し、蓄積されたデータを活用することで

「朝ラッシュ時の上り以外」

の満員電車ゼロを早期に実現できるというものだ。これ自体は実現できる提案だが、それに続いて、あたかも本命のように2階建て車両導入が語られているため、その構想に少々疑問符がついたのは否めない。

 事実、構想はあまりに壮大で非現実的なものだった。2階建て車両の導入といっても、東海道線グリーン車のようなものを走らせるわけではない。また、東海道本線湘南ライナーなどで運用されていた「215系」のような車両を使うのでもない(1992年に導入された10両編成・オール2階建ての電車。編成の短さとドアの少なさから支持を得られず2004年で東海道本線から撤退)。2階建て車両を導入するとともに、

「ホームも二層化して上下で乗降できるようにする」

というのが、構想の主軸だったのだ。これはかなり奇矯なアイデアである。また、線路の脇から集電する第三軌条方式を使えば、架線やパンダグラフがなくなるため、交差する道路などの改築が不要かつ、複々線化や新線建設よりも安いと主張している。そのための財源は、首都圏の鉄道利用者の客単価を40円あげれば、鉄道会社は年6000億円ほどの増収になるので、それを充当するとしていた。

ホームも二層化して上下で乗降。やっぱアリですよねこのアイデア?…と言いたいところだが、結局この記事だと、費用や工事期間、構内設備などの問題を考えるとやっぱりこれは非現実的で、2階建て車両案は小池都知事の「黒歴史」、という評価のようだ。そりゃそうだ。あまりに普及した既存の設備やインフラを総とっかえするというのは鉄道に限らずどんな産業でも実現は困難だろう。革命的・革新的と形容されるような大転換が必要になる。

じゃあどうすれば満員電車は解決するのか。個人的には早くどこでもドアを開発してほしいところだが、さしあたりはリモートワークをもっと推進するくらいしか現実的な対症療法はなさそうな気がする。

哲学史への興味を完全に捨て去りたい

いや捨て去ろう。自分の人生にとって哲学史の9割は何の意味も持たず、知ろうとするだけ時間の無駄…と思う。軽蔑する人もいるだろうけど人間なんでも向いてる訳じゃないし仕方ない。適性がなかった。それだけ。

 

2024/05/25

流し読みで読了。大阪市Z区(西成区?)のヤンキーを調査したエスノグラフィー。

学術研究なので当然学術的な分析がなされていて、先行研究の整理やそれとの差別化にも紙幅が割かれている。逆に実地での記録などはアーギュメントの流れに沿うものが選択的に提示されるに留まるので、どちらかといえば後者をたくさん読みたかった一般読者の自分としてはルポやノンフィクションに比べるとやや物足りなさを感じた。研究ってそういうものなんだろう。