2024/06/24

Jaquet, F. (2018), "Evolution and Utilitarianism."

 

前回取り上げたKahane (2014)に応答する論文。倫理的客観主義と自愛に関する(prudential)主観主義のハイブリッド説をとればカヘインの批判に対応できるというのが論旨である。

1. 倫理的ジレンマ
  • (めっちゃ大雑把に言うと)一方で、進化の選択圧によって形成された道徳的信念と道徳的真理との間には何の関係もない(進化は道徳的真理を追跡しない)。だとすれば、奇跡的な偶然がない限り私たちは真なる道徳的信念をもっているとは考えづらい。他方で、私たちの道徳的信念はそれが真であるからこそ進化したのだという説*1は経験的にありそうにない。なぜなら、単にそれが適応的であるからこそ進化したのだという説明*2の方がもっともらしい*3からだ。これを倫理的ジレンマ(ethical dilemma)と呼ぼう。
  • デ・ラザリ=ラデクとシンガーは、私たちの道徳的信念の大半が進化的に説明されることは認めつつ、進化の産物とは考えられない道徳的信念として、普遍的善行の原則(UB: 私たちはすべての人の福利を等しく考慮すべきである)についての信念を挙げる。UBの信念は適応的であるとは考えられないので、UBを信じることは認識論的に正当化される。UBが功利主義の核心的なテーゼである以上、これは功利主義の擁護とも捉えるべきである。
2. 自愛のジレンマ
  • カヘインはデ・ラザリ=ラデクとシンガーへの応答として、福利に関する信念(快楽は善であり苦痛は悪である)もまたその起源を進化的に説明できるので、道徳的信念と同様のジレンマに陥ると論じる。これをジャケは自愛のジレンマ(prudential dilemma)と呼ぶ。「快楽は善であり苦痛は悪である」というテーゼも(UBと同様に)功利主義の核心的なテーゼである以上、この福利についての信念がジレンマに陥るなら功利主義は正当化できない。
3. 筋の悪い解決策
  • 第4節で筆者自身によるカヘインへの応答が展開される前に、まずありうる2つの応答が検討され、それらがいずれもうまくいかないことが示される。

3.1 非暴露説 

  • 1つ目の応答は、福利についての信念が進化の影響を受けて形成されたことを否定するものである。しかしこれはうまくいかない(論拠は省略)。

3.2 主観主義をとる

  • 2つ目の応答は、道徳・自愛についての主観主義subjectivismをとり、私たちの態度が道徳的真理を基礎付けるのだと主張するものである。しかし、実際問題として私たちの態度がとても不偏的とは言えないことを考えると、このような構築主義的な主観説は、功利主義のような行為者中立的な理論よりも特別な義務の余地を残す偏った道徳理論とはるかによくマッチする。そのため、こうした主観主義をとるとUBは支持できなくなる。
  • より洗練されたバージョンの道徳的主観主義として不偏的観察者説(理想上の不偏的観察者の態度が道徳についての真理を基礎付ける)を採用すればいいのではないかと応答する者もいるかもしれない。しかし、不偏的観察者の態度と私たちの実際の態度との間には隔たりがあり、その観察者が是認するものが正しいという信念が私たちの実際の態度からどう生まれたのか不明である。不偏的観察者説は客観主義に接近しすぎており、結局道徳的諸信念は〔UB以外〕倫理的ジレンマに陥ってしまう。
4. 〔倫理的客観主義と自愛に関する主観主義の〕ハイブリッド説をとる
  • 著者自身の応答は、規範的領域全体についての統一的な説明を与えることを放棄し、倫理については客観主義を維持する一方で、自愛に関しては(=福利論に関しては)主観主義をとるというものである(ハイブリッド説)。この立場をとると、UBについての信念は進化の影響を受けていない客観的真理であるが、福利論についての信念は進化の影響を受けた私たちの態度によって基礎付けられた主観的真理だということになる。
  • 実際、現代の功利主義者の大半は福利の主観主義をとっている。具体的には、選好充足説あるいは態度的快楽説attidutional hedonism(快楽の感覚に対する肯定的な態度が福利を福利たらしめる)がそのような主観主義的な福利論にあたる。
  • 第5節および第6節ではハイブリッド説に対して提起されうる2つの反論を検討する。
5. 自愛に関する主観主義は十分に主観主義的か?
  • 第一に、態度的快楽説や欲求説は実際のところ自愛に関する客観主義なのではないか? ――欲求説を例にとって説明するなら、「知識は善である」「病気は悪である」のような表層的(具体的)な命題が真であるのは、私たちが知識を欲求するが病気は欲求しないからである。ここまではよい。しかし「ある人にとっての福利[善]とは欲求の充足である」のような根本的(抽象的)な命題については、私たちがそれ自体をも欲求する(=二階の欲求をもつ)かどうかに関わらず真であるように思われる。したがって欲求説は自愛に関する客観的な命題を含んでいないか?
  • これに関しては、表層的な真理は主観的であるのに対し、根本的な真理は理性が表層的な真理の事例を一般化することによって導いた客観的真理であると考えるべきである。「ある人にとっての福利は欲求が充足されることである」というような信念は進化ではなく理性的能力によって獲得された点でUBの信念と共通している。
6. 自愛に関する主観主義への退却はアドホックか?
  • 第二に、自愛に関する主観主義への退却はアドホックではないかという批判が考えられる。福利に関する真理が主観的なものか客観的なものかというのは、その信念が進化によって説明可能であるかどうかや、自愛的懐疑論を避けたいという私たちの意志によって決まるものではない。むしろ、それは自愛に関する判断の意味論の問題であり、したがって自愛に関する言説や概念を調査することによって立証されなければならない。
  • これはある程度当を得た反論であるが、実際のところ、自愛に関する真理が私たちの態度に依存しているということを支持する証拠は存在する。
  • まず、レイルトンの「疎外からの論証(argument from alienation)」がある。この論証によれば、「道具的に合理的な行為者が欲求するとも享受するとも思えないが、にもかかわらずその人にとってよいと言えるようなものが存在する」という考え方は、私たちの通常の福利の考え方からかけ離れた(=疎外された)ものである。自愛に関する主観主義はこのような疎外を引き起こさない点で大きな利点がある。ただし、これは道徳についても主観主義をとるべき理由にはならない。道徳的真理が私たちの態度とは独立に決まるという考え方はそれほど私たちの道徳についての考え方から見てかけ離れたものではない。
  • さらに、ハイブリッド説は、「道徳的義務は主体の欲求(or目的)に依存しない定言的なものであるのに対し、自愛の義務は主体の態度に依存する仮言的なものである」という規範理論における伝統的な考え方に適合するものである。

 

なるほど。5節で自愛についての表層的な真理は主観的だが根本的な真理は客観的だと言っているが話は本当なんだろうか。表層的な真理が主観的なら、そこから一般化によって導き出した根本的真理も主観的なのではないかという気がする。

 

 

*1:Street 2006でいうところの追跡説tracking account

*2:Street 2006でいうところの適応的リンク説adaptive link account

*3:Street 2006では、追跡説よりも適応的リンク説の方が⑴より簡潔、⑵より明確、⑶人間がある評価的判断を他の評価的判断よりもより行う傾向があるという問題の本質により光を当てている、とされている。